ひまつぶしのおともだち

やる気が出ないそんな時、サクッと手軽に気分転換

【ブログ小説】始まりは一回、終わりは二回

 なんで俺がこんな目に。

 夏休みの補習帰り、あともう少しで家だと言うのに、たまたますれ違った柄の悪い連中の肩にぶつかってしまった。

 すいません、と軽く会釈して去ろうとしたら、あっという間に胸ぐらを掴まれて人気のない路地裏へと連れ込まれてしまったのだ。引きずられながら抵抗を試みたが、腕力の差を実感するだけで終わった。

「金出せよ」

 がっしりした体格、いかつい顔立ち、チャラチャラしたピアス。俺は不良三拍子が揃った男二人組に壁ドンされて、金銭を要求されていた。低い声であぁ?と脅されてしまえば対抗する勇気などは跡形もなくしぼんでいく。

 正直お金は払いたくないが、一刻も早くここから逃げ出したいという気持ちの方が圧倒的に優っていた。俺は怯えながら、素直に肩から下げていたスクールバックに手を突っ込み、ガクガクと震える手で財布を漁った。

 その時、

「やめなよ」

 漫画だったら主人公の登場のシーンのような、タイミングの良さ、かっこよさでショートカットの女の子が現れた。右手にはコンビニの袋。オーバーサイズのTシャツの裾からはスキニーに覆われたスラッとした足が覗いている。逆光で、顔はよく分からない。

「あ?」

 男二人の目線が俺から女の子へと逸れる。女の子は男どもの凄みなど物ともせず、堂々と一歩一歩こちらに近づいてきた。

 危ない、とか、来ちゃダメだ、とか頭の中には言葉がぐるぐると駆け巡ったけれど、体は全くいうことを聞かず、呆然と見ていることしかできない。

「カツアゲとか、ダサいからやめなって言ってんの」

「じゃあお前がこいつの代わりになんのか?」

 一人が、女の子の前に躍り出た。ガン飛ばしながら、つま先から髪の毛まで舐めるように見つめる。そして、可愛いじゃねぇかと小さく呟いた。

「お前が俺たちの相手をするなら、こいつは見逃してやってもいいぜ」

 と、男がニヤニヤしながら後ろにいる俺を親指で指した瞬間、

「お“っ!?」

 女の子の右足がノーモーションで勢いよく男の股間に直撃した。

 いわゆる、金的だ。

 男はカエルが潰れたような叫び声をあげて、股間を両手で押さえたままその場に崩れ落ちた。何もされていない俺の股間もヒュンとする。

「テメェ!!」

 その光景を目の当たりにして、俺のそばにいたもう一人が女の子に襲いかかる。大きく振りかぶった右腕を、女の子はするりと避けると、その場にコンビニの袋を落とし、なんの躊躇いもなく拳を男の鳩尾に深くめり込ませた。

 急所を食らった男はうめき声を上げ、腹を手で押さえるくの字の姿勢になった。女の子はその一瞬を見逃さずに、男の顔を掴むと顔面に自分の膝を激突させた。路地裏に鈍い音が響きわたり、男は鼻血をたらながらどさりとその場に倒れこんだ。

「行くよ」

 何もできずに腰を抜かしてしまった俺の手を女の子が握って、俺たちはその場を後にした。

 

「災難だったね」

 女の子がアイスコーヒーの氷をストローでカラカラとかき混ぜながら言った。

 あの場所からかなり離れたところにある静かな喫茶店で俺たちは腰を落ち着かせていた。

 まだ若干震えがおさまらない俺を心配して、女の子が気を利かせてちょっと休もうか、と入ってくれたのだった。

「うん、ありがとう、助かったよ……」

「いいよ全然、気にしないで」

 俺は目の前にあるアイスオーレに手をつけられないでいる。

 女の子にカッコ悪いところを見られてその上助けられて、いまだに動悸が静かにならないのを気遣ってもらっているなんて。

 感謝はしきれないほどしているが、恥ずかしい。

「なんで制服なの?夏休みだよね、今」

 俯いて黙ってしまった俺に耐えかねたのか、女の子がストローを吸いながら聞いてきた。

「あ、あぁうん。補習帰りで」

「補習受けてるんだ、偉いね」

「いや俺下の兄弟が遊び盛りで、家だと課題とか絶対できないから」

 それで、と結ぶと、女の子の顔が少しパッと明るくなった。

「君も兄弟いるんだ。ぼくもなんだよね。ぼくんちは上に二人なんだけど、洋服のお下がりが回ってくるんだ。ほらこのシャツは兄さんので、このズボンは姉さんの」

 共通点を発見したことが嬉しかったのか、女の子は揚々と着ていたTシャツを引っ張って見せた。痩せ型だからメンズもレディースも着こなせるよ、と姉に言われたのだそうで。

「俺も、着ていた服が兄弟のお下がりに勝手になってるよ」

「勝手にはないかな」

 ふふふ、と女の子が笑う。俺もつられて笑った。

 しばらく兄弟多いあるあるを話していると、勝手に時間が過ぎていった。

「あ、もうこんな時間」

 先に声を上げたのは女の子だった。

「ぼくもう帰らなきゃ」

 と、女の子がお会計の紙に手を伸ばす。

 俺は慌ててそれを制した。

「奢るよ。助けてもらったお礼もしてないし」

「え、いいのに、別に」

「俺が嫌なんだ、奢らせて」

「ん〜……わかった、甘えさせてもらうね、ありがとう」

 女の子は一度は躊躇ったが、俺が強く言うとあっさりと引いてくれた。

「喧嘩、強いんだね」

 レジでお金を払いながら気になっていたことを聞いてみると、

「あぁ、うん、空手習ってるから」

 今黒帯で今度大会があるんだ、と教えてくれた。本当に強いんだなと思った。

「へえ、応援に行きたいな」

「ぜひぜひ」

 そんなことを言いながらも、もう会うことはないだろうと俺は頭のどこかでわかっていた。連絡先を交換するわけでもない。クラスが同じわけでもない。たまたま近所で会った初対面の女の子に、これからまた何度も出会えるとは思えない。

 喫茶店の自動ドアから足を一歩踏み出すと、むわっとした夏の空気が出迎えた。空はまだ明るい。

「それじゃあ、今日は本当にありがとう」

「うん、じゃあまたね」

 バイバイと大きく手を振って走り去っていく彼女の背中に俺も手を振る。

 彼女が曲がり角を曲がって、完全に姿が視界からいなくなると、胸がズキンと傷ついたのがわかった。

 あぁ、俺、あの子のこと好きになっちゃってたんだな。

 今更気づいてもどうしようもない。遅い。遅すぎる。住所も学校も知らないのだ。なんのアクションも取れない。取りようがない。

「……初恋と失恋が同時にくるのはきついなぁ……」

 俺の呟きは入道雲の踊る青い空の中に吸い込まれていった。

 

 九月。始業式。

 体育館で全校朝礼の校長の長々しいよくわからない話を聞いた後、俺の学年だけがその場に残された。受験が来年に迫っている俺たちに、学年の先生からありがたいお言葉とありがたい激励があるそうで。

 他の学年の生徒たちが体育館から出る間は割と自由時間で休憩時間。各々が歩き回り、仲のいい友達とのお喋りに勤しんでいた。

 俺は特に話し相手もいなかったので、体育座りで疲れた膝を休めるべく立ち上がって、ポキポキと音を鳴らしながら体を伸ばしていた。

 すると肩をチョンチョンと後ろから誰かに突かれた。

 振り返ると、

「やあやあ、また会ったね」

「え!?」

 あの時の女の子がニコッと笑って立っていた。

 そうか、帰り際にまたねと言っていたのは、俺が着ていた制服で同じ学校だと分かったからか。シャツの胸ポケットについている胸章で学年もクラスも把握できる。それで、人数の多い全校集会はともかく学年集会でなら見つけられたというわけか。

 そこまで理解して、俺は同じ学校、学年だった嬉しさよりも別のところに目がいっていた。

「な、なんでズボン履いてんの……?」

「ん?男だからでしょ?」

 男…………だったのか…………。

「ぼく、見た目に無頓着だから髪の毛全然切らないし、服もお下がりになっちゃうんだよね」

 よく間違えられるよ、と彼は頭を左右に振って髪の毛をブンブンさせた。

 なるほど、男女の兄弟からのお下がりの服を着ることでユニセックスに、伸ばしっぱなしの髪の毛は男でも女でも通用する長さになるわけだ。

 加えて本人の容姿が中性的で細いシルエットだから尚更。

「それより、この前空手の大会応援しに来てくれるって言ったよね?」

 呆然とする俺をよそに、その話をしに来たんだけどいいかな?と彼は可愛らしく首を傾げた。

 俺は二度目の失恋を味わいながら、ゆっくりと返事をする。

「もちろん」

 まずはお互いの名前から。

 

 

 

終わり

【ブログ小説】気にしないようにするのも、気にしているのと一緒

 そうなんだ、大変だね、頑張ってね。

 そういってみんな去っていった。いなくなった。

 もしかして、と期待するのも、もう疲れてしまった。

 

「……やれやれだぜ」

 私は一言呟いて、人通りのない校舎裏を歩き出した。

 この言葉は自分が折れそうになった時に使うおまじない。口にすると、辛いことがあっても自分は気にしていないように思い込めるのだ。

 なぜおまじないを声に出しているかというと、私は今、クラスメイトに隠されてしまった自分の体操着を探しているからだ。

 クラスで権力の強い女子に運悪く目をつけられてしまい、最近は物を隠されることが多くなった。教科書、上履き、他にも色々。

 不幸中の幸いと言うべきか、まだそれ以上のことはされていない。ドラマでよくあるようなシーン、トイレに入っている時に水はかけられていないし、座る瞬間に椅子を引かれることも授業中にコンパスで刺されることもゴミを投げつけられることもない。

 ただ、物を隠されるのだ。

「やれやれだぜ……」

 自覚するとやっぱり心が折れそうになる。思考と一緒に止まりかける足をなんとかまた進める。

 隠される場所は毎回決まって人がいない場所だ。隠しているのだから当然といえば当然。ゴミ箱に捨てられることはよくあったので、無くなったことに気づいた直後に見つけるようになったせいか、向こうも隠し場所のバリエーションを増やしてきた。飽きさせないための工夫だろうか。私なんかのために頭を使うなんてご苦労なことだ。

 現在進行形で捜索中の体操着は、普段隠される王道スポットを全部回ったが発見できなかったため、校内で人気のないところをしらみつぶしに練り歩いているのだ。

 とは言え、体操着を隠されたことに気づいてからもう一時間は経つ。さすがに足も疲れてきたし、ゴールが見えないとなると、なかなか辛いものがある。

 私は校舎の壁に寄っかかって、ズリズリとそのまましゃがみこんだ。

 なんでもいいから癒されたい気分だ。

「……大量の柴犬に囲まれたい……」

「え?」

 私の独り言に反応する声があった。

 思わず顔を上げると、いつの間にいたのか、見知らぬ男子が驚いた顔をしてこちらを見ていた。

 バチッと目が合った瞬間、ボンッと小さなものが爆発するような音と共に煙が立ち込めた。

「え、何、何」

 状況が飲み込めずに煙がなくなるのをただ待っていると、さっきの男子はもうどこにもおらず、代わりに可愛らしい柴犬が幼気な目つきで立っていた。

「え!?」

 可愛い。これは可愛いぞ。

 さっきの男子がどこに行ったのかとかどうして煙が上がったのかとかもうどうでもよくなるくらい可愛い。柴犬の可愛さに比べれば世の中の全ては無力化されてしまうのだ。

 私の心は一瞬で目の前の柴犬に鷲掴みにされた。

「触ったら噛むかな……?」

 柴犬に目線を合わせるようにしゃがみ込み、恐る恐る手を差し伸べてみると、

 

「噛まないけどさぁ、お前もうちょっと焦れよ」

 

 犬が喋った。

「犬が喋った……」

 驚いて手を引っ込めて尻込みする私をよそに、柴犬は後ろ足で耳の裏を掻いていた。

「見られちまったもんはもうしょうがないからな」

 柴犬がそう言うと、また小さな爆発音と煙が上がった。空気が晴れると、そこには柴犬の代わりにさっきの男子が立っていた。

「え!?柴犬は!?」

「俺だよ」

「え」

 断じて違う。柴犬と人間を比べるのはあまりにも無理がある。主に可愛さが。

「信じてもらえねぇとは思うけど、俺は自分の名前と一緒に動物の名前を呼ばれると、その動物になっちまうんだよ」

 元に戻る分には自分でどうにかできんだけどな、と彼は困ったように付け加えた。

「お、お名前は……?」

「良(りょう)」

 た、大量の柴犬……。

 そう易々と信じられるはずもないけれど、瞬時に柴犬が消えたりこの良君が現れたりしているところを目の当たりにしてしまっている時点で、信じないわけにはいかなかった。あまりにファンタジーといえど、辻褄は合う。

 良君はついさっき柴犬が後ろ足で耳を掻いていたみたいに、頭の後ろをぽりぽりと掻いて、

「俺としては信じても信じてもらえなくてもどっちでもいーんだけど、とにかくこのことを誰にも言わないで欲しいんだよね、色々面倒だからさ」

「わ、わかった」

 言わないよ、と私は約束した。なんなら言えるような友達もいなかったし、誰かに話したところで私の頭が可哀想なことになったと思われるだけだろう。憐れみの目を向けられても私にいいことはない。

「サンキュー、物分かりがよくて助かるよ。つっても、タダで頼みを聞いてもらうのも良くないよな。お前ここで何してんの?」

「た、体操着を探してる」

「体操着?こんなところで無くしたのか?」

 こんな誰も来ないような場所で?と良君は首を傾げた。

「いや、私、いじめられてるから、どこかに隠されて、それでこういう隠しやすそうなところを探してるの」

 何かを探す素ぶりをする私に声をかけてくれるクラスメイトや優しい人もかつてはいた。でも、私がいじめられていると分かると、気まずい表情でどこかに去ってしまうのがおきまりのパターンだった。

 この人も事情がわかれば、触らぬ神に祟りなしと言って私から遠のくだろう。

 それでいい。お互いのために。きっと。

「んだよそれ」

 私の予想とは裏腹に、良君は怒りをあらわにした声色と表情で凄んだ。

「おい、そいつ連れてこいよ」

「え?」

 なんで?

「俺がとっちめてやる」

「や、やめてよ、いいよ別にこれくらい」

「よくねぇだろ、全然“これくらい”なことじゃねぇよ」

「いいって、結局、私が仕返しされちゃう」

「……確かにな」

 いつでも俺が守れる訳じゃねぇしな、と良君はため息をつく。私の説得に納得したのか、今度は腕を組んでウンウンと唸り始めた。

「……じゃあせめて、その体操着探すの手伝ってやる。また俺を犬にしてくれ」

「えっ、と……?」

 良君は尻餅をついたままの私に合わせてしゃがみこんだ。

「俺の名前と、動物の名前、言って」

「り、良君、柴犬」

 展開の早い注文についていけず狼狽える私を、良君はまっすぐに見つめてくる。逃げられない感じがして、戸惑いながら指示された通りに言葉にしてみた。

 すると、また煙と破裂音が飛び立ち、人の形をした良君は跡形もなくいなくなり、愛らしい柴犬だけがぽつんと現れた。

 やっぱり可愛い。

「お前の匂いを探すから手を嗅がせてくれ」

 無くし物探しは俺に任せろと言わんばかりに黒い鼻をこちらに寄せてくれる良君。なんて頼もしい柴犬なんだろう、と私は中身が同年代の男の子とわかっていながらもトキメキが止まらなかった。

 でもその前に……。

「撫でてもいいかな……?」

「……好きにしろ」

 

 存分に飽きるまで撫で回させて頂いてから、私たちは体操着探しを開始した。

 ふんふんと地面を嗅ぎながら進む良君の後を私は黙ってついていった。丸まったもふもふの尻尾が左右に揺れる。触りたくなる衝動を抑えて、私も視界にそれらしいものは入らないかと注意を配らせた。

 しかしやっぱり犬の嗅覚はすごいというか、先に何かを発見したのは良君だった。彼はピクンと顔を上げたかと思ったら突然駆け出してしまった。

「良君!?」

 驚きのあまり数歩出遅れた私は、なんとか良君を見失わないように後を追うのが精一杯。

 もともと足が遅いのに体力もない私にとってはしばらく走った先の、良君にとってはほんの数メートル先の、花壇の草むらの中に躊躇なく彼は飛び込んだ。緑の間から可愛らしいお尻が突き出し、フリフリと揺れ動いている。

「大丈夫……?」

 どう手伝えばいいか考えあぐねていると、すぐに良君が顔をズボッと抜き出して戻ってきた。

 口には、私の体操着の上下をくわえて。

「これ……!」

「合ってるか?」

 私は膝を折って体操着を受け取り、胸元の名前の刺繍を確認する。私の苗字がきっちりと縫い込まれていた。

「うん、これ、私の!ありがとう」

「よかった」

 ぐちゃぐちゃになった体操着を抱きしめてお礼を言うと、優しく微笑んだ良君がボフンッと犬の姿から元に戻った。

「じゃあこれで、俺のことは内密に頼むな」

「うん、というかこんなにしてくれなくても、誰にも言わないよ」

 唇に人差し指を当てて、しーっというポーズをとる良君に、本当にありがとう、と立ち上がって改めて頭を下げた。良君とはこれでお別れだけれど、良い人もいるんだって人の温かさに触れられて嬉しかった。初対面の私なんかのために本気で怒ってくれたこと、探し物を手伝ってくれたこと。無くした体操着以上のものを得られた気分だ。

 感動に浸る私をよそに、良君は自分のズボンのポケットからスマホを取り出した。

「あと、これ俺の連絡先」

「え?」

「いいから登録して。あとお前のも教えて」

「え?え?」

「いいから」

 訳も分からず、言われるがまま、押されるがままに、彼の連絡先を私のスマホに登録し、私の連絡先が彼のスマホの中に登録される。

「よし、じゃあまた困ったら連絡しろよ。行けない時もあるかもしんねぇけど、出来るだけ駆けつけるし、返信はすっから」

「え?え?なんで?大丈夫だよ、私誰にも言わないよ?」

 やることは全て終わったと言わんばかりに手を振って去ろうとする良君を慌てて引き止め、そこまで義理を働かせてくれなくても約束を守ると、意思をきちんと伝えようとした。そんな私に良君は、はぁ?と不可解な顔を向けた。

「口止め料じゃねぇよ、俺がしたいからそうしてくれって言ってんの」

「な、なんでよ?私たち初対面だよ、いまさっき会ったばっかりじゃない」

 どうしてそんなにしてくれるの?と思わず良君の袖を引っ張ってしまった。

 良君はその手の上に、私より大きな手を重ねて、

 

「困ってるから、助けたいだけ」

 

 体操着を見つけた時と同じ優しい笑みを浮かべると、私の頭をポンポンと触って、じゃあな、と今度こそ本当に良君は去っていった。

 良君の小さくなる後ろ姿を見送りながら、私は触られた頭がジンジンと熱を持ったように熱くなるのを感じていた。

 心臓が、ドキドキする。

「…………やれやれだぜ」

 自分の中で何かが弾け飛んだことに気づかないふりをするように、私は平常心を保つためのいつものおまじないを呟いた。

 

 

 

終わり

【ブログ小説】現実逃避の先の現実

 タイムリミットが着々と迫っている。

 みんな口を開く余裕などなく、今まで見たことがない程に真剣な表情になっていた。

 俺たちには、もう時間が残されていない。

 

 

 君はギリギリになるまでやらない派?それともコツコツ終わらせる派?

 この話題が出た時点で何の話かはあらかた察しがついているだろうけど、それでもこの話を続けさせてほしい。

 質問した側として、俺の回答を言わせてもらうと、もちろん俺はやる気が出るまでやらない派だ。

 やらなきゃいけないことっていうのは、どうしてこうもやる気が出ないんだろうな。別にいつやってもいいことや、やってもやらなくていいことばかりに目がいってしまう。部屋の掃除なんかは特にそうだ。

 しかもだ、いい加減そろそろやらなきゃなと思い立って、いざ目の前に立ってみると、何も考えずにとにかく手をつければいいものを、どれくらいで終わるものか計算してしまったりする。

 具体的に言えば、一日五時間やれば一週間で終わるとか、三日徹夜をすれば終わるとかだ。

 ここで冷静になってみれば、今までやらなかった物事を一週間も五時間向き合っていられるわけがないし、三日の徹夜なんてものは体力的に無理だとわかるはずだ。それはもうやるべきことを終わらせることではなく、徹夜できるかどうかに目的が変わってしまっている。

 しかし、こういうことを考えている時の自分ってやつは、いささか冷静なんてものとは程遠いところで、ありもしない幻覚の余裕を見つけてほくそ笑んでいるのだ。一週間や三日で終わるなら今やらなくても良いのでは?と。

 その甘美な響きに対する自分の体の従順性は素晴らしいもので、そうと決まればやりたいことーー特に将来役に立つわけでもなんでもないーー、とりわけゲームやら遊びやらに手が伸びてしまい、また今日も素敵な一日が楽しく終わりを告げてしまうのだ。

 言ってしまえば、それの繰り返し。繰り返される日常とはいうものの、退屈などとは縁遠く、毎日毎日好きなことに夢中になり、好きな友達と遊び呆けていれば、時間なんてものはあっという間に過ぎ去ってしまう。自分の好きに囲まれている、というまとめ方をすれば、繰り返しという言葉で言い換えることができなくもないというだけの話だった。

 好きと楽しいのリフレインほど、一生続くと信じられるものもそうそうない。下校後にランドセルを置いて身軽になってから集合した、小学生だったあの頃と何ら変わりない十代の青春がキラキラと輝いていた。もっとも、青春だと自覚したのは卒業間際になってからだったけれど。

 それこそ、高校生になってから行動範囲こそ広がったものの、中身は大して成長していないので、話題の店に長時間並んでタピオカを飲む日もあれば、誰かの家の近くに待ち合わせて公園で缶蹴りをしたこともあった。お金がかからない外遊びでも、いまだに全力疾走で汗をかけるような俺たちだった。

 その中でも一番思い出に残っているのは、よく遊ぶクラスのメンバー五人で電車を乗り継ぎまくって海まで行ったことだった。俺たちの通っている高校は内陸なので、海からはなかなか距離があり、よく駅のポスターにある、青い空に入道雲、そして海をバックに制服を着た女の子を自転車の荷台に乗せて立ち漕ぎで走るような、そんな経験とは微塵も関わりがなかった。だからこそそれを俺たちもやってみたいと思ったのだ。誰が言い出したかは覚えてない。

 自転車こそないけれど、とにかく海に行こう、と誰かの家でダラダラしていた時に誰かが言い出して、最初こそ困惑したけれど、決まってしまえばこんなものは勢いだった。

 電車に揺られながら一番安い経路を探して海へと向かう。目指すは夏のポスター。

 人気のない駅を降りると、すぐに潮の匂いが鼻腔を掠めた。馴染みのない匂いに俺たちは鼻を鳴らす。唐突に一人が走り出して、それにつられてみんなが走る。

 すぐに視界は滅多に見ることのないマリンに囲まれた。

 海だーっ!と思い思いに口にする。人はそこそこいた。けれど海水浴が禁止されている地域だったので、俺たちは靴と靴下を浜辺に脱ぎ捨て、男五人でカップルよろしく追いかけっこや水の掛け合いにいそしんだ。

 その日だけで、一生分笑った気がした。

 

「……海、楽しかったなぁ……」

「お前それ何回言うんだよ」

 俺の呟きに、隣に座る涼平(りょうへい)がこちらに目もくれずにため息をついた。ベッドサイドに置かれている目覚まし時計がカチコチと静かに深夜一時を示す。他の三人は会話に入る気力もないようだった。三人とも問題集の解答を見ながら、正解と不正解を混ぜこぜにして答えを写すことに一生懸命だ。

「現実逃避……」

「帰ってこい、早く」

 涼平だけが俺の独り言に答えてくれる。いいやつだ。

 今現在、海に行った俺含め五人は俺の部屋に集まって、テーブルに座り各々が課題とにらめっこを続けているのだ。このど深夜になるまで。

 全員翌日のための着替えは持ってきている。着替え、と言うより学校の制服だ。

 それだけの覚悟と絶望を持って、俺の家に全員が集まってしまったのだ。

 

 ……そう。

 夏休みの宿題が終わらないのである。

 今日は八月三十一日。

 ……いや、もう十二時を回ったので正確には九月一日。

 八月三十二日を錬成する方法があると言うのなら、誰か教えてくれないか。

 登校時間という名のタイムリミットまでの、あと数時間以内に。

 

 

 

終わり

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【ブログ小説】もう興味ないの

 私の人生で初めてにして最大の愛の告白は随分とこっぴどく終わりを告げた。

 中学生の頃、映画の趣味が合う男の子に、私はいとも簡単に恋をした。話していて楽しい、もっと一緒にいたい、と幼いながらに心に秘めた。

 卒業式の日。たまたま近くに誰もいない状況で二人きりになれた。元々友達として仲は良かったので、卒業かぁ、なんて当たり障りのないことを言い合う最中、私は意を決して彼に思いを告げたのだ。

 それに対する返答は思春期の女の子にとってはたいそう酷いものだった。

「俺、ブスとは付き合えないんだよね」

 お前のことは良い友達だと思ってるよ、とだけ言い残して彼は去った。私はその場で泣いた。私が醜いから、彼に振り向いてもらえなかった。彼の言葉は呪いとなり、私を絞めつけ、蝕んだ。止まらない涙と共に決意を胸に燃やして。

 絶対に可愛くなって見返してやる……!

 

 私は変わった。まずは己を知ることから。自分の体のどこが可愛くなくてどうすれば可愛くなるのか、穴があくほど鏡とにらめっこした。

 最初は体型の改善からということで、ダイエットを始めた。ネットで徹底的にダイエット方法や知識を蓄え、信憑性や効果がどうあれまずはやってみる。続けられそうだったら続けてみる。できないことはやらない。食事制限、有酸素運動無酸素運動。続けられることを第一に無理だけはしないと決めていた。流石に生理が止まった時は慌てて食事を摂ったけれど。

 次にメイク。ブスと言われたからには黙っていられない。世の中には安くて良い化粧品が沢山出ていて、技術次第でいくらでも可愛くなれると証明して見せるんだ。動画サイトでメイク動画を漁り、持っていないもの今手元にあるもので代用できるもの、正直学生でお金がなかったので、お母さんをなんとか説得しながらメイク道具を揃えていった。道具が揃ったところでメイクがうまくなるわけじゃない。夜な夜なアイラインやアイブロウをひく練習に明け暮れ、肌に合うベースメイクを見つけ、学校でバレないよう盛れるナチュラルメイクを研究した。

 そして中学卒業後に入学した高校では、努力の甲斐あってか、月に三人のペースで告白されるまでになっていた。街を歩いていて、あの子可愛い、と男の子の集団に指をさされたこともあった。

 見た目の変化だけで男子たちの扱いはこうも違うのか、と愕然としたと同時にがっかりしてしまった。言葉遣いも趣味も、中身はあの頃と何も変わっていなかったからだ。

 

 そしてまた月日は過ぎ、私は大学生になった。

 今日は授業がない平日の午前中、私は地元の映画館に一人で来ていた。この時間帯は比較的に人が少ないので、映画館での人の笑い声が苦手な私にとってはベストタイミングだった。

 人気のない発券機の前で、お目当ての映画のチケットにお金を払おうと財布をカバンから取り出していると、

「……もしかして木原?」

 男の人に後ろから声をかけられた。

 名前を呼ばれ、反射的に振り返ると、中学時代に私をとても酷いセリフで振ったあいつが、大学生の姿になって、片手を上げて立っていた。

「やっぱり木原だ!なに?お前もこの映画今から観るの?」

 私の顔を確認すると、パタパタと駆け寄ってきて、馴れ馴れしくも購入ボタンを押しかけの発券機の画面を覗き込んだ。

 地元の映画館で同じ映画趣味の中学の同級生とばったり出くわすのは、それはまあ自然なことではあった。

 しかし彼は当時私に対して何と言い放ったのか覚えていないのだろうか。私にとっては重く深い傷になり、今も傷口がグジュグジュと痛むというのに。

 彼は過去なんて何もなかったかのように、映画のワンシーンみたいに、昔の仲の良かった同級生として久しぶりじゃん、元気だった?などと揚々と話していた。

「この映画、俺も観るところなんだ。一緒に観ようぜ」

 俺奢るし、と頬を少し赤く染めながら誘ってくる彼を見て、幼い私と彼との会話を思い出した。どんなに仲良しでも映画は一人で観たいよね、と意見が一致したあの頃の会話だ。

 彼はポリシーが変わったのか、それとも、ポリシーを変えてでも見た目が変わった私と一緒に映画が観たいのだろうか。

「……木原?」

 ずっと黙ったまま何も言わない私に彼が不安そうな顔でこちらを見つめていた。

 その時、私は確信した。

 高校生の頃から、私が変わったあの日から、私は沢山の男の子にアプローチを受けてきた。デートにも誘われた。告白もされた。そんな彼らと同じ土俵に、今彼は立っている。

 

 ……やっと彼が私に振り向いてくれた。

 

 嬉しくてたまらなかった。

 中学生の私が大好きだった彼が、私を気になっている。映画代を奢った上に、あわよくば私をデートに誘おうという空気がビシバシ伝わってくる。経験上、断られるリスクの低い軽いお誘いの後は、これからご飯でも、とデートに誘導されるのはよくあることだった。それを彼がやろうとしていることが分かって、あの頃の私がようやく報われたと思った。

 だから私は、自分の持てる最大限の可愛さを放つべく、とびっきりの笑顔でこう言った。

 

「どちら様ですか?」

 

 ってね。

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終わり

 

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【ブログ小説】ロマンチックな再会を果たしたら

 SIDE.M

 

 太陽が頭の真上に登る頃、私は自作したお弁当を片手に、働いているオフィス近くの公園を歩いていた。

 私の勤めている会社を保有するビルの中には、大勢の職員が一斉に取る昼休みのために、カフェや定食屋などの飲食店も多々開店していたけれど、お世辞にも給料が良いとは言えない暮らしを強いられている私は、少しでも食費を抑えるために自炊に励み、毎日作り置きのおかずをお気に入りのお弁当箱に詰め込んで持って来ているのだった。

 ん〜、と私は空気を鼻から大きく吸い込んだ。歩を進めれば進めるほど、太陽とそよ風のコラボレーションが仕事で缶詰にされていた気分をリフレッシュさせてくれる。

 デスクワークが主な業務である私の会社では、自席で持参した食べ物を食べても良い決まりになっているが、ただでさえ出社してから退社するまで無機質な机とパソコンだらけの所に座り続けなければならないのに、一日一回の休み時間すら場所を変えなかったら頭がどうにかなってしまいそうだ。ビル内にある適当なベンチの方が、オフィスからの移動時間が少なくて済むけれど、緑を全身に浴びることができる公園まで足を運ぶのが、私の日常のささやかな楽しみになっていた。

 いつものベンチまで歩いていると、ふと炭酸の空き缶が道端に転がっているのが目に入った。すぐ横には自動販売機とそのゴミ箱があるので、入れたつもりが入ってなかったか、何かの拍子で落ちたんだろう。

 私はその空の缶を拾い上げながら、「えっへん」と得意げに胸を張る一人の男の子を思い出した。

 

「炭酸飲めないの?ダッセー」

 と、悠也(ゆうや)くんは鼻を鳴らした。

 それは私がまだ高校生だった頃。悠也くんは近所に住む小学生の男の子だった。彼の家は、学校から帰っても誰もいないことが当たり前のようで、たまに一人で遊んでいるのを見かねて私が声をかけたのが仲良くなるきっかけだった。鍵っ子なのに鍵を忘れて登校してしまい、家に入れなくなっていたらしい。

 悠也くんは最近引っ越してきたばかりで、つまり転校してきたばかりで、まだそんなに仲のいい友達もおらず、私も私で帰宅部に所属していたので、授業が終われば真っ直ぐに帰宅路についていた。そんな私たちがよく遊ぶようになるのに、そんなに時間はかからなかった。

 ある日、学校帰りの私はランドセルを置いた身軽な悠也くんと出くわし、公園の横にある自販機で飲み物を買ってあげようという話になった。

 自販機の前で「炭酸がいい!」と元気な声を出す悠也くんに対して、私は炭酸苦手だなぁという呟きへの返答が冒頭の台詞になる。

「だってベロがばちばちして痛いじゃない」

「痛くないよ!子供だなぁ」

 自分より年齢も低ければ背も低い子供に子供と言われてしまった。

「じゃあ悠也くんはコーラでいい?」

「うん!」

 お金を投入すると、自販機の一番上の段で缶コーラのボタンがキラキラと青色に光る。それを押すと取り出し口にがこん、と商品が落ちて来た。悠也くんはすぐにコーラを拾って、私が自分用にミルクティーを買うのを大人しく待っていた。

 ミルクティーとコーラを片手に、私たちは公園の中のベンチに座る。二人でぷしゅりと小気味のいい音を立てて、それぞれの飲み物を開封した。

 そして私がペットボトルに口をつけようとすると、悠也くんがそれを遮った。

「見ててね!」

 そう言うと彼はコーラをぐびぐびとまだ喉仏のない綺麗な喉に流し込んでいった。無理のない範囲での一気飲みに私は拍手を送る。

「おれ、コーラ飲めるでしょ!すごいだろ!」

「うん、すごいすごい」

 えっへん、と小さな胸板をそらすと同時に彼の口からはカエルの鳴き声みたいな盛大なゲップが漏れ、初めて聞いた声に、二人でお腹を抱えて笑い合った。

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「……懐かしいなぁ」

 思わず独りごちてしまう。彼はまだ元気だろうか。

 彼が小学校高学年にもなると友達も増え、次第に私と会う機会は減っていった。私が受験期を迎え、大学生になる頃には、もう顔を合わせることもなくなった。

 そして就職を機に、私は上京して一人暮らしを始め、たまにしか実家には顔を出さなくなり、彼がどう成長したのか全く知らないのである。

 ……悠也くんもそうだけど、

「お父さんとお母さん、元気かなぁ」

 会う機会がめっきり減ってしまった両親へ思いを馳せ、次の大型連休では帰省しようと心に決めながら、しばらく手に持ったままだった空き缶のゴミをゴミ箱へと放り投げた。

 

「……まだ炭酸飲めないのか?」

 

「え?」

 低い声がした。声の主へと振り返ると、高校生ぐらいの背の高い男の子が両手をポケットに入れてこちらを見ていた。

 どことなく既視感のある顔立ち。なんとなく聞いたことのある声。少し人を小馬鹿にしたような言い方。

 …………もしかして、

「悠也、くん?」

「…………」

 何て言っているのかは聞き取れなかったけれど、私の問いかけに彼がボソボソと小さく答えた瞬間、

 

 目の前がしゅわしゅわと炭酸水みたいに弾け飛んだように感じた。

 

 

 

 SIDE.Y

 

 引っ越してきたばかりでひとりぼっちだった頃、よく構ってくれたお姉さんがいた。俺は彼女を舞美(まみ)ちゃんと呼んでいた。

 転校先の学校にも慣れ、友達も増えてくると、舞美ちゃんと俺の距離は自然と遠のき、彼女は友達同士で遊ぶ俺に対して空気を読んだように、保護者のように、暖かい目でそっと黙って会わなくなっていった。あの時の気遣いがありがたいものだと気付いたのは、身長が180を超えたあたりだった。

 そんな舞美ちゃんが就職して上京し、もう二度と会うこともないかもしれないなとぼんやり思い始めた矢先、

 

 彼女が交通事故で亡くなったと知らされた。

 

 親から告げられた突然の訃報に、初めて身近な人が死んだことを、俺はにわかに受け入れられなかった。

 もうすぐ卒業する中学の制服に身を包み、親と一緒にドラマでしか見たことがなかったお通夜に出席すると、死化粧を施された舞美ちゃんが棺桶に眠っていた。交通事故とはいえ、外傷は激しくなかったとのことだった。

 死んだ人には何を言っても届かないとは分かっているけれど、高校生から大人になった舞美ちゃんはとても綺麗な女性になっていた。棺桶の中の彼女も、笑顔で沢山の花に囲まれている写真の中の彼女も。

 見よう見まねで焼香を行った後も前も、俺はさっぱり実感が湧かず、薄情なのか涙は出なかった。彼女との思い出も、随分とぼやけてしまっていた。

 お通夜が閉会すると、父さんと母さんに連れられて舞美ちゃんのご両親に挨拶に行った。舞美ちゃんのご両親は俺のことを覚えてくれていて、俺ごときの参列に舞美も喜ぶよ、と嬉しそうに肩を叩いてくれた。

 舞美ちゃんのお母さんが声をひそめたのは、俺が東京の高校に進学して寮生活を始める、と話した直後だった。

「……確か、悠也くんのお爺様って、神社の方よね?」

「?はい、そうですけど……」

 不思議そうに頷く俺の腕を引っ張って、他の三人から離れた場所で立ち止まると、舞美ちゃんのお母さんは、

「……誰にも言わないで欲しいんだけどね、実は、お願いがあるの……」

 と、前置きして話し始めた。

 

 曰く、舞美ちゃんは成仏していないらしい。

 

 さっきまでなんと言っているのか分からない読経をしていたお坊さんに言われたらしい。この体のそばに魂がありません、と。読経には故人に死を知らせるという役割があるが、本人に届いた手応えがなかったとのことで。もしかしたら地縛霊なんかになって死んだ所の近辺をさまよっているかもしれない、と舞美ちゃんのお母さんは続けた。

「お父さんはそういうの信じないからふざけるなって怒っちゃうし、私も体が弱いから東京まで行ってお祓いするような体力もなくて……。だからお願い、何かのついででいいから、娘を成仏させてあげて欲しいの」

 お世話になっていた時はいつもニコニコしていて、おうちにお邪魔する度にジュースを用意してくれた優しい舞美ちゃんのお母さんの頼みを無下にするなんて思いも寄らず、できる限りやってみます、と俺は深々と頭を下げた。

 

 ひとりぼっちだった俺を助けてくれた舞美ちゃんが、今度はひとりぼっちになっている。俺に出来ることがあるならやれるだけやってみようと思った。

 その後、俺は東京に引っ越す前に、じいちゃんの神社を訪ねて事情を説明した。じいちゃんはしばらく神妙な表情で俺の話を聞いていたが、全部聞き終わると、ちょっと待ってろ、と行って席を外した。

 しばらくして戻ってくると、一枚のお札を渡された。

「自覚はないようだが、悠也は霊感が強い。それに昔馴染みの縁のある人なら、このお札を体のどこかに貼り付ければ、それで成仏させることができるだろう」

 できれば顔が望ましい、と最後に結んだじいちゃんに俺は頷き、神社を後にした。

 東京に引っ越してからは、慣れない新生活にしばらくばたついた。事前に聞いていた事故現場への道のりや交通経路などを把握するのにも時間がかかり、なかなか行動には移せなかった。それでも、予想もしないところでいつ出くわしてもいいように、お札だけは肌身離さず持ち歩くように心がけた。

 やっと寮生活や高校が落ち着き、気の合う仲間も数人出来始めた頃に、ようやく、俺は休みの度に舞美ちゃんの事故現場あたりへと赴くようになった。

 なりふり構わずそこら辺を散歩している人を捕まえては写真を使って女の人を見なかったかと聞き込みをし、一ヶ月くらい経つと、毎日同じ時間に同じベンチに座る、写真に似た女性が一人だけいるという情報が手に入った。もしかしたらただの他人の空似で、この公園に来るのがルーティーンになっている人の可能性もあったが、確かめない手はなかった。

 たまたま開校記念日で休みになった平日の昼、俺は情報元へと急いだ。

 くだんのベンチへと向かう途中、自動販売機の前で空の缶コーラを拾う一人の女の人に目を奪われた。後ろ姿を見て、横顔を見て、確信する。

 舞美ちゃんだ。

「やっと見つけた……」

 なんとか出会えた達成感と懐かしさがまぜこぜになってブワッと押し寄せてきた。鼓動が早まる。心臓の音がうるさい。

 あぁ、何か、何か話しかけないと。

 あの時、友達のいなかった俺に、舞美ちゃんが声をかけてくれたように。

 意を決して、頭が真っ白のままにも関わらず、俺は舞美ちゃんに一歩近づいた。

 その瞬間、彼女の細い手からコーラの空き缶がゴミ箱に放たれるのが目に入り、口が勝手に動いた。

 

「……まだ炭酸飲めないのか?」

 

「え?」

 彼女がこちらに振り返る。

 あぁ舞美ちゃんだ。棺桶の中に眠っていた舞美ちゃんだ。実際に会うと、写真なんかより全然あの頃の面影が残っているのが分かる。

 俺は、持ち歩きすぎてくしゃくしゃになってしまったお札をポケットの中で握りしめて、ちょっとずつ近づいて行った。

「悠也、くん?」

 舞美ちゃんが、俺に気づく。

 そうだよ、悠也だよ。久しぶりだね。

 ……でも、さよならだね。

 熱いものが目頭にこみ上げてきたのを、精一杯押しとどめながら、俺はじいちゃんからもらったお札を舞美ちゃんのおでこにピタリと貼った。

「……最期に会えて、良かった」

 俺の呟きが聞こえていたのかどうかは分からない。

 

 舞美ちゃんは炭酸水みたいにしゅわしゅわと泡になって空へと消えていった。

 

 

                                                                                                                   終わり

【ブログ小説】赤リップが似合わない人はいない?

 

 熾烈を極めた受験戦争ではなんとか無事に第一志望校を制覇し、三年間お世話になった高校も卒業してしまい、JKの肩書きと仲間との別れを惜しんだ三月。一応便宜上はまだ高校に所属しているのことになっているとはいえ実質ニートの日々を満喫している中、私は来たる大学デビューに向けてとある一大決心をして、五千円の入った財布を手にデパートの中に足を踏み入れた。

 目指すはそう、デパートコスメ、通称デパコス。

 

 私は化粧をしたことが人生でただの一度もなかった。

 私の通っていた高校は校則が厳しく、メイクをして来ようものなら先生に捕まり、生徒指導室へ直行。連行された友達曰く、生徒指導室にはクレンジングシートが常備されており、メイクをしていないかどうか確かめるために、それで顔を拭くことを強要されるらしい。そしてシートに肌色やら黒い繊維やらが付着してしまうと、ファンデーションやマスカラを使用している、と怒られてしまうのだ。

 一年生の頃こそ、メイクをして来ては目を付けられていた友達も、三年生になる頃には化粧をしているようには見えないが顔面が盛れるスクールメイクと呼ばれる技術を習得しており、クレンジングシートにも色がつかないように透明な下地やトーンアップ効果のある日焼け止めを採用したと話してくれた。

 なぜ化粧をしたことのない私がこんなにメイク用語について詳しいかと言うと、理由はただ簡単、調べたからだ。

 高校の頃までは化粧厳禁と口酸っぱく言われて育ってきたにも関わらず、大学生になった途端に「化粧は女の常識」という寝耳に水なルールを押し付けられるのだから、真面目に言いつけを守って来た女子はたまったもんじゃない。だったら自由参加型の化粧講座を高校の授業でやって欲しいと思ってしまう。

 そういうわけで、これからの出会いの季節、新生活のスタートダッシュで恥をかかないよう、あらかじめ知識だけは頭に叩き込んできたのだった。ネットが発達している時代でよかった。無料で様々な知識が手に入る。

 そうしてネットサーフィンを続け、さあ実際にコスメを買いに行こうという最終段階になって、私は気になるウェブ記事を見つけた。

 “絶対に似合うリップが見つかる店”

 そんなタイトルに目を惹かれて、そのサイトをクリックすると、デパコスなのに格安でリップを販売しているブランドがあり、しかも絶対に似合う口紅を見繕ってくれるというのだ。

 メイクが禁止ならバイトも禁止だった私の閑古鳥が鳴くお財布事情にはありがたすぎて逆に不気味な話だったが、プロに見繕って貰えるとなると話は別だ。ドラッグストアでたくさんのリップに囲まれ結局何も買えずに帰路につく自分が容易に想像できる。メイク初心者の私が、自身に似合う色の区別が付けられるとは到底思えない。

 私はその情報を信じ、自宅から最も近くにある店舗まで足を運び、現在に至るのだった。f:id:yokosukanami:20190713155451j:plain

 

 一歩デパートの中に入ると、数えきれないくらいのコスメブランドがあちらこちらに並んでいた。間隔を空けずにお店が設営されているので、どこまでがどのブランドの陣地かよく分からない。香水も販売されているのかコスメそのものの成分なのか、良い匂いがいたるところから漂ってきた。

 私はお目当てのブランドを探すべく足を進める。どこのブランドも時に可愛らしく時にかっこよく、テレビのコマーシャルでよく見かけるような私でも高級品と知っているようなブランド名もあった。

 初めてのことに、心臓がドキドキと波打っている。周りを見渡せば、お客さんは海外からの旅行客かお母さんくらいの年齢の人たちが多かった。こんな小娘が入る場所ではない、と誰からともなく責められているような気分にさせられる。

 それでもなんとかすぐに目的のお店に辿りつくことができた。たまたま私が入った入り口から近い場所にあってよかった。とにかく一安心、とホッと胸を撫で下ろし、さてここからどうやって買い物をすればいいんだろうと店の真ん前ど真ん中で立ち尽くしていると、

「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」

 綺麗なお姉さんが話しかけてくれた。店員さんのようだった。

 ツヤツヤした黒髪を頭の後ろでぴっちりとお団子にし、黒いパンツスーツを身にまとった、キャリアウーマンとはこの人を例えた言葉なんじゃないかと思えるくらいかっこいい女性だった。

「あ、の、私にも似合う、リップが見つかる、って聞いて」

 一ミリも化粧をしていない芋臭い女がどもりながら聞いてしまった。自己紹介するまでもなくメイク初心者が藁をもすがる思いでここまでやって来ました助けてください、と宣言しているようなものだった。

「かしこまりました。こちらでお待ちください」

 お姉さんは第一印象から確実につまずいた私に対してもにこやかな笑顔を返してくれ、年齢も低ければお金を持っていそうな身なりもしていないのに、きちんと客として扱ってくれる。とても良い人だ。

 通されたのは正面に大きな鏡が設置されているカウンター席。鏡の左右には数個ずつ電球が長方形の鏡の形に沿って縦に並んで灯っており、鏡の向こうにいる私の瞳の中に小さなライトが浮かんだ。まだ何も肌に乗せていないというのに、それだけでなぜか可愛くなった気がした。

 指示された通り、椅子の脇に置いてあったカゴの中に荷物を入れ、お姉さんを待っていると、すぐに数本のリップを持って現れた。

「失礼ながら私がいくつか、お客様に似合いそうなものを選ばせて頂きました」

 なんと、何も言っていないのにこのお姉さんはオススメを持って来てくれたのだった。

「あ、ありがとうございます!」

「とんでもないです。実際に乗せてみますか?」

「お願いします!」

 意気揚々と、初めて髪を切られる子供みたいなワクワク感と共に、私はお姉さんの方に顔を向けた。お姉さんはリップブラシでリップをとり、丁寧に私の唇に色を乗せてくれる。下唇にさらっと塗られたと思ったら、

「んまんましてください」

 と言われ、最初はよく理解できなかった。固まってしまった私を見て、お姉さんが上唇と下唇を口の内側に入れる動作をお手本として見せてくれた。

 これで合ってるかな、と不安になりながらもお姉さんの動きを真似して口を動かす。お姉さんが変わらぬ笑顔で頷いてくれる。リップ塗る時ってこういうことするんだ。やっぱり知識だけじゃメイクは上達しないんだなと実感した瞬間だった。

「じゃあ整えますね」

 もう一度お姉さんが私の口にブラシを当てる。少しの間、ささっと撫でられたと思ったら、

「できました。鏡をご覧になってください」

 お姉さんから鏡に視線を戻すと、真っ赤な唇をした私がそこにいた。

「赤……!?」

 こんな大人っぽい色に最初から挑戦するなんて、と最初は衝撃を受けた。しかし口裂け女のように似合わないわけじゃないのだ。

 似合っているのだ、不思議と。

「強そう……」

 強そうなどと発言してしまう時点で私は弱いと言っているようなものじゃないか、と口にした後に気づいた。

 真紅と形容しても違和感のない色味。今まで、酸いも甘いも知り尽くした熟年女性か才能と気品に溢れる悪女にしか許されないと思い込んでいた、そんな色が自分の顔を彩っているなんて、なんだか攻撃力の高い武器を装備したみたいだった。

「どうですか?」

 ニコニコとリアクションを求めてくるお姉さんにハッとする。

「あ、赤なんて大人っぽすぎて絶対似合わないと思ってました!」

「そんなことないですよ。血の色も赤ですから、人間の持っている元々の色と一緒なんです。だから、男性女性関わらず、似合わない人なんていないんですよ」

 ふえぇ、とお姉さんの高い説得力に思わず語彙を失ってしまった。お姉さんは次のリップを両手の上に並べて見せ、

「他の色も試しますか?」

 と、柔らかく小首を傾げた。

 私はそれに二つ返事で了承した。

 

 それからお姉さんは様々な赤色を私に提案してくれた。

 ピンクっぽい赤、オレンジっぽい赤、茶色っぽい赤、紫っぽい赤……。

 どの色も私の雰囲気をガラッと変えてくれて、新しい私を短時間で何度も目の当たりにすることになった。驚いたのは、赤だけでこんなに種類があるということと、リップ一つで人の印象が簡単に変化すること。

 お姉さんが持って来てくれた全ての色を試し終えて、クレンジングシートで唇を拭いていると、お姉さんがいかがなさいますか、訪ねてくれた。

「……やっぱり、最初の色が一番好きです。これください」

「かしこまりました」

 お姉さんは恭しく頭を下げて、新品を持ってくると言ってコスメカウンターの引き出しを開けていた。私はその間にカバンから財布を取り出す。

 安いとは聞いていたものの、念のために五千円を持って来ていた。こういうところでのリップの相場は二千円から三千円台くらいだと聞いていたので、多分足りないということはないと思う。

「こちらでお間違いないでしょうか」

 と、お姉さんが新しく持って来てくれた新品の箱を開けて中身の口紅を取り出し、さらにキャップを開けてくるりと回転させ、本体の姿を覗かせた。最初に塗った色と同じものだということを確認して、お姉さんがそれを袋に入れてくれる。

「では、税込で千円でございます」

 安い。

 最悪五千円を覚悟していた身としては、五分の一の値段に収まったことに驚きを隠せない。

 お姉さんが商品と一緒に持って来てくれた黒いキャッシュトレイに千円札を置く。

 これで目的は達成、すぐに家に帰ってお母さんに自慢しよう。

 お母さんの羨望の眼差しを想像して、カバンを持って帰ろうとすると、

「それではこちらへ」

 と、お姉さんはなぜかコスメカウンターの奥の奥、カーテンで仕切られている部屋へと誘導して来た。

 まだ何かあるのだろうか、と私は荷物を持ったままなんの疑いもなくその背中についていった。

 

 仕切りの向こう側は簡易的な小さな部屋になっていて、丸い背もたれのない椅子が二つとその横にデスクが一つ。デスクの上には医療機器のようなものが並んでいた。

 予防注射の時によく見るものだった。

「それではこちらにお座りください」

 疑問符が頭の周りを駆け巡るのを抑えられないまま、私は座ってしまった。これから何をされるのか何が始まるのか皆目見当がつかない。

「はい、じゃあ右手出して、掌を上にして軽く握ってください」

 そう言って、お姉さんは慣れた手つきで私の袖をまくり、二の腕をゴム製の短いロープで強く結ぶ。そして肘あたりを消毒液のついたコットンで軽く二、三回撫でると、注射器をプスッとぶっ刺した。

「うぇぇぇぇぇ???」

 なんで?なんで私献血されてるの?

 注射器の中にどくどくと血が溜まっていく。動いたら危ないことくらいわかるので私は混乱しつつも、何もできない。

「はい、ありがとうございました」

 注射が上手いのか、大した痛みもないままするっと注射器を抜いて、刺していた場所を上からコットンで強く抑えられる。そのままコットンを固定しておくように指示され、お姉さんは二の腕のロープをぱっぱと解くと注射をした後に傷口に貼るシールを私の手を退けてぺたりと貼った。

「はい、これでお代は全て頂戴しました、またのご来店をお待ちしております」

 終始変な顔をしていた私には微塵も触れず、さっさとコスメカウンターの外まで見送られてしまった。

 とはいえ、さすがにこのままでは帰れない。

「あの、今のって……」

「言ったでしょう?お客様」

 と、お姉さんは会った時からの微笑みを絶やさぬまま、

「赤は血の色、と」

 その笑顔がとても怖いと思った。

 

 その場から逃げるように家に帰ってから、どっと疲れた私はデパコスを買ったことなど親に言う気にもならず、カバンから購入したリップを取り出して、私はベッドにダイブした。

 スプリングの悲鳴を聞きながら、なんとなくそのリップの底を覗き込んだ。

 “マリ”

 商品番号のようなアルファベットと数字が並ぶ中で、色の名前のような文字が目に入った。

 マリなんて色聞いたことはないけれど、色を表す日本語には私の知らない難解なものが多いからその一つだろう、と思考を止めようとした時、不気味な仮説が頭をよぎった。

「もしかしてこれ……マリさんって人の血から作られたリップなんじゃ……」

 ブルリと背筋が凍ったのがわかった。

 考え過ぎだとも思った。

 それでも、そのリップを使う気には、どうしてもなれなかった。

 

 

    終わり

【ブログ小説】愛と言えば愛

f:id:yokosukanami:20190713155132j:plain 誰もいなくなった放課後の教室で、同じクラスの幼馴染であるあゆみが僕を呼び出した。

 呼び出されるのはいつものこと。僕らは秘密を共有し合う仲だった。

   僕は自分の机にカバンを置く。あゆみは僕に背を向けて窓の外を眺めながら、ポツリと話し出した。

「……私、諦めることにしたんだ」

 秘密というのは、お互いの恋心。

 英語部のあゆみは部活の先輩が好きだった。その相談を週三回の部活動が無い日に、僕を教室に呼び出しては、恋の相談に乗っていた。し、あゆみも僕の片思いについてアドバイスをくれていた。

 英語部とは名ばかりで、校外の活動に力を入れている人が帰宅部なのもバツが悪いと、便宜上入っているだけで、基本的には校外活動がない日にだけ顔を出す人も多いらしい。

 先輩もその一人で、中学校の部活ではないところで、野球をやっていた。

 モテる人だった。 

「……そっか」

 僕はそれしか言えない。あゆみがこの恋で苦しんでいたのは十分に知っていたし、何度も悩んでやっと出たであろう解決策を、僕が簡単に否定していいものだとは思えなかった。

「……先輩、好きな人がいるんだって」

 声が少し震えていた。彼女の目元に光る雫を、僕は気づかないふりをした。きっとそれが優しさというものだと思ったから。

「こうたは、私みたいにならないでね」

 こうたも好きな人がいるんでしょ、とあゆみが初めて僕の方に振り向いて、微笑みかけた。泣いているのに、泣きたいのに、僕のために無理矢理笑顔を作っているのが分かって、いたたまれない気持ちになった。

「…………愛って、伝わらないよね」

 僕が小さく呟くと、あゆみは何言ってるのと言った。

「私のは、伝わらないんじゃなくて、伝えないんだよ」

 私の努力不足、と付け足して、彼女はまた空を見上げた。

 夕日に照らされた後ろ姿を見つめながら、僕は気づかれないようにため息をつく

 ……やっぱり、伝わらないよ。

 

   こんなに君のことが好きなのに。

 

 

 

 

  その話を聞いて、俺は少なからず、自分に好意を抱いてくれていたという後輩に同情してしまった。俺が仕出かしたことなのだから同情する権利なんてないのに。

「だけど先輩、ありがとうございました」

  雨がしとしとと降る薄暗い校舎口の隅で、目の前の男がそう言って、俺に一万円札を手渡す。これを受け取ることは、自分の中で人として大切な何かが崩れ落ちるような気もしたが、大きすぎる金額に抗えずに静かにそれを財布にしまった。小学校の頃の道徳の授業は無意味だったかもしれない。

  こうたは、俺が諭吉を懐に入れるのを黙って見つめていた。

「……俺が言えた口じゃないけどさ」

  お前、悪いやつだな、と呆れるように言うと、こうたはにっこりと笑った。

「お金を受け取ってる先輩も先輩ですよ」

  分かってるよ、それくらい、と思った。俺も自分の好きな人から恋の相談を受けたら同じような行動をとってしまうのだろうか。

  それじゃあ、と言って去っていく後輩の背中を見送りながら、俺は彼との出会いに思いを馳せた。

 

  俺とこうたの出会いは一ヶ月前。

  たまたま一人で下校しようとしていた下駄箱で、突然話しかけられた。そのまま、こうたと名乗る初対面の後輩と、俺は一緒に帰ることになる。

  今日みたいな、雨が降っている日だった。

「先輩、あゆみって子知ってますか?」

「英語部の子のことだったら知ってるけど」

「その子、先輩のことが好きなんです」

  唐突なカミングアウトに開いた口が塞がらない。

  というか、それ本人に別の人間が伝えていいのか?

「そ、そうなんだ」

  こういう時、なんと答えるのが正解なのか俺には分からなかった。動揺する俺の反応をチラリともせず、後輩は淡々と本題に触れた。

「だから、振ってほしいんです」

「え」

  その子のこと嫌いなのか?

  最初に思い浮かんだのは嫌がらせ目的だった。

  しかし俺の予想に反してこうたは、

「僕はあゆみのことが好きなんです。もう、十年以上」

  一途で純情な片思いを吐露した。言葉だけ聞いていたら、全米が泣く映画にできそうな恋路のように感じた。

「僕とあゆみが出会ったのは幼稚園の頃です」

  と、彼は二人のエピソードを語り始める。

「僕がいじめられている時に助けてくれたのが仲良くなるきっかけでした。僕はすぐに彼女のことが好きになりました。でもあゆみにとって僕は大勢の友達の一人のようでした。ある日、二人で遊んでいた時に結婚してって言ったんです。まだ四歳だったんですけどね。あゆみは大人になるまで私に恋人ができなかったらいいよ、と言ってくれました」

  そこまで聞いて、俺はゾッとした。

  つまり、こいつはその十年前の本人が覚えてもいないだろう約束を、律儀にも二十歳になるまで守り続けようとしているのだ。

  本人の意思に関係なく。

「あゆみが僕以外の男を好きになって、恋をするのは自由です。でも、恋人はやっぱり僕じゃなくちゃダメなんです」

  お願いします、と言って、こうたは足を止め、俺に頭を深々と下げた。

  狂気に満ちた後輩の頑なな意思に、俺は戸惑った。

「そんなこと言われても……」

「ただあゆみに一言、『好きな人がいる』と伝えてくれればいいんです。本当にいてもいなくても。そうしたらきっとあゆみは先輩のことを諦めます。もちろん、タダでとは言いません」

  これは前金です、とこうたは俺に五千円札を握らせた。

「……っおい!」

「あゆみが先輩を諦めたら一万円差し上げます」

 悪い話じゃないでしょう?と微笑む後輩が悪魔のように見えた。

  俺は深く、息を吐いた。雨粒がそれを消す。

「……少し、考えさせてくれ」

「はい。僕のメールアドレス、教えておきますね」

  こうたは肩にかけていたスクールバックから器用に紙とペンを取り出すと、サラサラとそこにアドレスを記して俺に押し付けた。

「その五千円は差し上げます。話を聞いてくれてありがとうございました」

  そう言って、こうたは雨の中、信号の向こうへ消えていった。

  俺は手元に残るこうたの連絡先とお金を見つめる。

「伝わらない愛っていうか……」

 

  伝え方を間違えた愛、だな。

 

 

 

  終わり